※読み方
早桐(さぎり)
明祀(あかし)


「ほら、持ってきたわよッ」
 荒々しく薬湯の入った湯のみを置いた反動で、湯が波打ち盛大に溢れて、机はおろか床にまで被害が及んだ。
「あーもうっ、こぼれたじゃない!」
 明らかに過失は自身にある。
 それを理解しているからこそまた余計に腹立たしくて、早桐はその事態にさらに深く眉間を寄せた。その表情はふて腐れているを通り越して怖いくらいだ。
 早桐をこうも苛立たせている根本的な原因は明祀であるのだが、今はまだ、早桐はこの状況にばかり対峙していて、苛立ちの矛先は直接明祀自身に向けるまでに至っていなかった。けれども、どうせあとから自身に白羽の矢が立つことは目に見えていたので、明祀はひとりで擦った揉んだしている早桐を何も言わずただ傍観していた。
 見ていて飽きないのが早桐の最大の長所なのではないかと思っている明祀だったが、以前彼女にそれを告げたところ、一瞬で今と同じような形相になって殴られたことがあるので、それからは口にせず心中におさめることにしていた。
 床にこぼれた薬湯を拭おうと、机に置かれていた巾をひっつかんで屈んだ早桐の口からは、尚も悪態が漏れ続ける。
「だいたい、なんでアンタのためにこんな事しなくちゃいけないのよ! まったくもう」
 あたしだって暇じゃないんだから云々と文句を連ねる早桐に、今まで黙っていた明祀はにたりと笑んだ。けれど、下を向いて床を拭っている早桐がその表情に気づくことはもちろんなくて。
 明祀は含み笑いを噤むと、次の瞬間にはなにやら浮かぬ顔をして、それに似合いの心底同情を呼ぶような声音で詫び言を発した。
「……すまぬ」
 早桐はびくりと肩を震わせると、勢いよく顔をあげた。
 確かに明祀の声で聞こえた素直な謝罪に、早桐は先と同じに女性として如何なものかと思わせる表情をしたまま固まって動かない。
 つまり、それくらい彼のこの行動が珍無類というわけである。
 これは現実か、と早桐は恐る恐る、けれども力強くはっきりとひとつ大きな瞬きをして、しかしその先にはやはり伏し目がちに申し訳ないという風で項垂れた明祀がいるのだった。
「初鹿野姫であるお前様に、このような事をさせるべきではなかったな」
 どうやら現実らしい、と目を瞬かせていると、明祀がさらに詫び言を連ねようとするものだから、堪らなくなった早桐は勢いよく立ち上がった。
「な、なによ急に!」
 平生の尊大でおちゃらけ風情の明祀からは些とも想像できない態度に、早桐は大分混乱して、また勢いよくがばりと屈んで元の体勢に戻った。
 今まで、こんなにも恭しく低姿勢な態度を、彼は取ったことがあっただろうか。いや、絶対になかった。とりあえず、早桐の知るところでは。
 だからこそ、早桐の混乱具合も終ぞないくらいで、口からは意図せずとも性急な弁明が漏れた。
「べ、別に薬湯運ぶくらいするわよ! あたしなんて臼井たちと違って姫って柄じゃないし……。もう、なんなの! 全然いつものアンタらしくない!」
 調子狂うじゃない、と勢い任せにそこまで言ったところで、今更に羞恥心がふつふつと湧いた早桐ははたとうつむいた。
 明祀はその様子にまたもにたりと笑んで、今度はそれを隠すことなく浮かべたまま、今はうつむいてつむじしか見えない早桐を見下ろした。
「早桐、顔を上げろ」
「なによ」
 言われるがままにした早桐は、見上げた先にあるものを視界に入れた瞬間、頭の中で何かがキレる音を確かに聞いた。
 そして本日何度目かの、自身の表情が歪んでいくの確かに感じた。
「どおひたんら、こはひかほひて」
 自らの両頬をつねって舌を突き出し、ばあとふざけた顔を作った明祀は、神妙な雰囲気? そんなものは最初からありませんでした、とでも言うようにおちゃらけている。
 羞恥心ではなく、今度は怒りで顔を染めた早桐は、自然と力の入る拳を震わせた。
「アンタは、いったい、なにがしたいのよーっ!」
 明祀が一目散に駆け出した。
 早桐は湯のみを手に取って、追いかけながらそれを思い切り振りかざした。
 中身の薬湯が勢いよく宙で弧を描きながら明祀の背に迫る。しかし、彼はひらりとそれをかわすと、少し乱れた髪を結い直そうと両手を後頭に回しながら、余裕綽々の体で立ち止まった。
 やっとのことで追いついた早桐は、肩で息をしながらそのあからさまに悠長な態度の明祀を睨め付けた。
「いったい、あたしを、なんだと思ってんのよっ」
 その問いに、明祀はどんな女性も一瞬で首ったけになってしまいそうな実に甘い笑みを浮かべて、さも当然のように言い放った。
「トーゼン、おもちゃ」
 ご丁寧に、その声音まで語尾にハートマークが付くような甘さだった。
「アンタねぇ、ふざけんじゃないわよ!」
 早桐の手から勢いよく放たれた空の湯のみは、今度こそ明祀の額に命中した。






玩び種