扉を開けた瞬間、すでに嗅ぎなれてしまった保健室独特の空気が鼻をついた。
「失礼します……」
「あら、鷹島くんじゃない。また貧血?」
 仕草だけで肯定を示した俺は、ふらふらと窓際のベッドに倒れ込んだ。
「ちゃんと食べてるの? 最近は男の子もダイエットするんだから」
 先生は仕切りのカーテンを閉めながら、呆れた口調で言った。
「そんなんじゃないですよ」
 その的外れな言動に、俺は苦笑しかできなかった。
 ダイエットね……。確かにそれが目的ではないにしろ、アレのおかげで体重が減っているのは事実なのだが。
 俺は昨夜のことを思い出して嘆息しつつ、自然と襲ってきた眠気に身を任せると、意識は直ぐに沈下した。

 どれくらい眠っていただろう。カーテンをスライドさせる音が耳について、俺の意識はうっすらと浮上した。ただ、容赦ない眠気に、重たいまぶたを開くことはできなかった。視界を閉ざしているせいか、カーテンを開けた奴がこちらに近づいてくる気配が鮮明だった。それは俺の枕元で止まったかと思うと、どうやらベッドに腰かけたらしく、スプリングが軋むのを感じた。そして、生暖かい何かがひたりと俺の頬に触れた。それはゆるりと下って首筋をなぞった。
「……んッ」
 くすぐったいような言いようのない感覚に、つい声が出た。ふと馴染みのある匂いに嗅覚が反応した。覚えのあるシャンプーの香りだった。重たかったはずのまぶたが開き、意識は完璧に覚醒した。
「やめろ、皐」
 俺が言うと、彼はやっと首筋に這わせていた舌を引っこめ顔を上げた。
「あ、起きちゃった」
 言いながら、再び俺の首元に顔をうずめる皐を押し戻して、俺は上半身を起こした。開いたカーテンから覗いてみたが、どうやら先生はいないらしかった。
 俺は嘆息して皐を睨んだ。
「なにしてんだ」
「だってお腹すいちゃったんだもーん」
「今朝やっただろ」
「さっき体育だったから、暑いし疲れちゃってさ」
 確かに皐は体操着を着ていた。窓の外を見ると、日光が容赦なく照りつけていた。
「今日みたいな日は体育休めっつただろ」
「僕だってサッカーやりたい」
 皐は拗ねるような仕草で、少しうつむいた。
「だからって」
「それに頑張ったんだよ! 途中で、転んで怪我したやつがいて、血がいっぱい出ててさ、それで」
「お前、まさかっ!」
「頑張ったって言ってるじゃん! すっごい我慢したんだから」
 皐はむすっとした顔をずいっと俺に寄せた。
「だから、兄さんのちょーだい」
「ちょ、おい!」
 抵抗したところで無意味なことは解っていたが、俺の本能が拒否反応を起こしていた。そして、皐のこの行為もまた本能であるのだから、どうしようもないのだった。
 彼の舌がすーっと俺の首筋を舐め上げては、ちろちろと探るように下る。
「は、早くしろバカッ」
 何度繰り返されてもなれない感覚に、俺はいつも戸惑ってしまう。早く終われと、願わずにはいられなかった。
「それじゃあ、いただきまーす」
 どうやらポイントを発見したようで、皐は俺の首元から少しだけ顔を離して言った。
「こぼすなよ」
「ん」
 瞬間、首筋に鈍い痛みがして、ぞくぞくっと冷たい何かが背を走った。皐の唇がいっそう俺の首筋に吸い付いた。視界が揺れた。
 やばいな……。
「さつ、き、もう勘弁。意識とびそう……」
 彼はちらりと視線だけで俺を見上げると、すいっと最後に一舐めして俺から離れた。
「ごめん、兄さん」
「元気になったか」
「うん」
 皐は申し訳なさそうに俺を見上げると、再び身を乗り出して、今度は俺の唇に触れた。もちろん皐の唇で、だ。そして、人工呼吸をするように、俺の口内に軽く息を吹き込んだ。おかげで、俺の体は少し楽になった。
 こんなところ誰かに見られたらやばいよなー……。
 こっちとしては、やましいことをしているつもりはなかったが、傍から見れば勘違いされかねない。
 特に、弟の皐は、他とは違う魅惑的な雰囲気のある美少年だと校内ではそれなりに有名なのだ。
 ガラッと扉の開く音がしたので、俺は慌てて乱れたシャツを直した。
「あら、皐くんじゃない」
「こんにちは、先生。兄がいつもお世話になってます」
 なーにがお世話なってます、だ。誰のおかげでお世話になってると思ってんだか。
 内心で悪態をつきながら、皐の背を小突く。
「お前は教室戻れよ」
「帰り、一緒に帰ろうね」
 こんな具合だから、俺には彼女のひとりもできやしない。これは断じて弟への責任転嫁ではなく事実だ。
「先生、兄はまだ体調がすぐれないみたいなので、もう少し休ませてあげて下さい」
 皐が退室際に言った。
「失礼しました」
 先生はくすくす笑いながら、枕元に来て俺の顔色を覗いた。
「皐くんは本当にお兄さん思いねー」
 俺は苦笑しか返せなかった。
「あら、その首どうしたの?」
 俺はびくりとして、首元に手をやった。指先に微かな血痕がこびりついた。
「あ、いや、えっと……さっき蚊に刺されちゃってですね。あ、あまりの痒さにかきむしっちゃって血が……」
 しどろもどろ過ぎる口調に微妙な言い訳。しかし、先生は納得してくれたようで、棚から痒み止めを持ってきてくれた。俺はそれを塗るふりだけして返した。
「まだ顔色悪いし、もう少し寝てなさい」
「……はい」
 先生がカーテンを閉めると、俺は大きく息を吐きながらベッドに沈み込んだ。
 疲れたー……。皐のやつ、処理は最後までちゃんとやれっつてんのに。
 俺はもう一度首元をこすって、血痕が残っていないかを確かめた。
「そういえば、今日はハロウィンねー」
 カーテンの向こう側から先生が言った。
 そっか、今日で一年か……。まったく、なんでこんなことになったんだか。
 目を閉じると、また直ぐに眠気が襲ってきて、俺の意識は沈下した。






りつブラッドナー

(魅惑の美少年と噂される俺の弟は、正真正銘のバンパイアだ。)