※読み方
充孝(みつたか)
お姫さま(おひいさま)
靄のように薄い雲が風に流されて行く。時折、雲間から鮮明な月が顔を覗かせた。秋の盛りだ。庭は赤や黄色に染まっている。
縁側に腰掛け、ぼんやりと見上げている充孝のもとへ、そろそろと足音が近づいて来た。ここは夜の静寂に包まれている。
「お姫さま。なにをしていらっしゃる」
微動だにせず充孝が言った。
お姫さまと呼ばれた女の身なりは、どこをとってもそれらしくない。彼女は充孝の隣に腰を据えた。
「やめて下さいな。私はそう呼ばれるに相応しい人間ではありません」
「俺にとっては、いつまでもお姫さまですよ」
「……昔の話ですね。今となっては、なまで名を呼んだところで充孝を罰する人はいませんよ」
「知ったことではありません」
女は肩を震わせた。声をころすようにして笑うのが、幼子の頃から彼女の癖だった。
長年、彼女の成長を傍で感じてきた充孝は、彼女を解かっているという自負がある。
「充孝の強情は相変わらずですね」
そして彼女もまた、充孝を解かっていた。
季節の移ろいとともに、少しずつ、そしてそれらは明らかに変化して行く。
女は神田辺りでは有数の大店であった粟屋の娘だった。しかし事あって、今は当時下郎として店に奉公していた充孝と二人きりの生活である。
女は、予てから珍しいくらいに身分の差など気にしない性情だったが、充孝はといえば、それがなくなった今でも彼女を姫と呼び扱う。対して女はいささかの不満を抱いていたが、言ったところで充孝が改めることはなかった。昔から彼はそんな風であった。
―――そう、充孝は変わらない。
それは女を安心させたが、時に互いの立つべき場所が違ってしまうような憂いにも似た感覚に襲われるのだった。
緩やかな夜風が頬をかすめる。吹き渡る風も、心地よさより肌寒さを感じさせるようになってきた。もうすぐそこに冬が在る。
「お姫さま、そろそろ中へ」
「……本当に、まったく貴方も強情ね」
それだけ言うと、女は奥へ引っ込んだ。最後まで彼女の視線が充孝を捉えることはなかった。
充孝の視線もまた、終始秋の夜にそそがれたまま女を見ることはなかった。
秋風に、たなびく雲の絶え間より
(もれ出づる月の 影のさやけさ)