「私、あの人が大嫌いなの」
 彼女は言った。言葉に反して、その表情も語気も平然としている。元来、彼女は、風が吹いてもまるで揺らがない水面のような性質なのだ。しかし、彼女の言うところの大嫌いなあの人だけが、彼女の鏡のような水面に波紋を描くことができる。
「大嫌いなら気にしなければいいじゃない。わざわざ大嫌いだなんて考えて、疲れるだけだわ」
 彼女があの人を大嫌いだと言うたびに、私は同じ返答を繰り返す。それに対する彼女の言いぐさもまた、変わらない。
「気になるのよ」
 私は溜め息をついた。もちろん心の中で、だ。
 彼女と私はそれなりに長い付き合いであるし、彼女があの人を嫌いなくらいには、私は彼女のことが好きだ。たぶん、彼女はあの人を嫌いなほど、私を好きではないだろう。しかし、それは些末なことだ。もともと、私は、好き嫌いの枠に人を当てはめることをあまりしない。意味があることとは思えないからだ。利用できるものは利用すればいいし、支え合えるものとは支え合えばいいだろう。不利益になるものは取り合わなければいい。気にしなければいいのだ。
 私はそういう思考であるから、それに適った返答しかできない。もう幾度となく同じ問答を繰り返しているのだから、頭のいい彼女はそれを理解しているはずなのだが、幾度も幾度も彼女は言うのだ。あの人が大嫌いだ、と。
 彼女にしてみれば、別段私の返答を求めているわけではないのかもしれない。独り言のようなものなのだろう。しかし、黙っているというのもどんなものだろうか。結局、私は今日も変わらず規則正しく太陽の周りを公転する惑星のように、なんら変わりのない返答をする。
「嫌よ嫌よも好きのうち。そんなに気になるのなら、あの人のことが好きなのよ」
「まさか。嫌いよ」彼女はやはり平然と、それが神に定められた揺るぎない事象であるかのように明言した。「大嫌いよ。殺してしまいたいくらい」
「それなら殺してしまえばいいのに」
「あら」彼女は微笑んだ。「あの人のために私が犯罪者になるなんて至極ご免蒙るわ」
 どうして私があの人のために手を煩わせなくてはならないの、と彼女はとても不思議そうに首を傾げた。そして当然のように言うのだ。
「勝手に死んでくれないかしら」
「それこそ勝手ね」
「だって」彼女は平然と言う。「私、あの人が大嫌いなの」






出口がない





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