「髪、短くしたのね」
 グラスに注がれた赤ワインを揺らしながら、彼女は瞳を眇めた。平坦な口調だったが、きっと呆れているのだろうと思う。それでも、何も言わない彼女を、私は好きだった。一緒にいて楽なのだ。それは、一種の甘えであることも理会しているつもりだ。彼女が、私を詰ることも厭うことも無いと解っているから、私は安心して彼女と同じ空間を共有することができる。
 ロンドンから一時帰国した彼女が、真っ先に私を訪ねて来てくれたことを、だから私は素直に嬉しかった。単に、長いフライトに困憊した身体を引きずって自宅に帰るのが面倒で、空港からほど近い私のマンションに一泊して行くことを決めたのだとしても、だ。
 彼女に指摘された髪に指を絡めながら、私はワインを一口含んで舌の上を転がした。なかなか美味しいワインだ。普段、好んでアルコールを摂取することのない私にワインを語ることはできないが、とにかく、私の舌を満足させるのには、十分過ぎるほどだった。
「長いほうが好きだって言ってなかった?」
「私?」
 彼女は頷いた。
「もちろん、長いほうが好きよ」
 昔から、似合う似合わない以前に、私はロングヘアというものが好きだった。私自身、三ヶ月前までは、腰より少し短いくらいの長さを保ち続けていた。今は、肩にもつかないショートヘアだ。
「でも、短くしたのね」
「短いのもいいって言ってたから」
 彼女は肩を竦めて、ふっと息を吐いた。昔から、彼女はよくこういう仕草をする。私がさせているという自覚はある。
「会ってるの?」
「たまたま会ったのよ、三ヶ月前に。ショートヘアの可愛い子と一緒だったわ」
 彼女は、まるで私の内心を見透かそうとするように瞳を細めた。発せられた疑問は、驚くでも馬鹿にするでも呆れるでもなく純粋だった。
「まだ好きなの?」
「さあ」
 私は即答した。これは本心だ。嫌いでは絶対にない。しかし、好きなのかと聞かれると、それは解らないのだ。彼と別れてから、すでに一年以上が経つ。時の経過は、信念とも言うべき確固たるものであったはずの私の感情を、空中楼閣のごとく不確定なものにしてしまった。
 いつだって、私の中心は彼だった。きっと彼の中心は私ではなかったけれど、私は私の中心を彼と定めていたし、私の世界そのものと表現しても過言ではなかった。もちろん、目の前にいる彼女はいつだって大切な友人であったし、その他様々な人や物が傍に在ったけれど、やはり私の世界はどうしたって彼だった。
 いつだったか、彼女に言われたことがある。
 一本道の狭い世界ね。
 皮肉でも嘲りでも、なんでもない。まさしくその通りだった。私の世界は、彼へと続く一本道。広がりもなにも無い、狭い世界。それは、他人からすれば融通の利かない酷くつまらないものなのかもしれないが、私はそれに満足していたし、それでなければ嫌だったのだ。
 彼と別れてからも、しばらくの間は、やはり私の世界はどうしたって彼だった。しかし、感情が曖昧になって行くにつれ、それに同調して、私の世界は揺らめき始めた。それは、とてつもない悲しみ、苦しみ、弱さ、寂しさ、数多のマイナスの感情を私に与えた。
「彼に囚われるのは嫌だって、さんざん言ってなかった?」
「言ってたわ」
「でも、髪は短くしたのね」
「短いのも、なかなかいいものだって気づいたわ。楽だもの」
「なにが」
「手入れ」
「手入れも、でしょう」
 彼女は、それならいいのではないか、という肯定の類の微笑みをくれた。全てお見通しのようだ。彼女のこういうところを、私は好きなのだ。私も微笑み返したが、たぶん、私の顔に浮かんだのは苦笑の類だったろうと思う。
「なにか、つまみになるものを作りましょうか」
 彼女はうんともすんとも言わなかったが、私は立ち上がった。冷蔵庫を開けた瞬間、流れ出て来た冷気がいつもより冷たい気がして、私は首を竦めた。
 結局、私は、囚われていなければダメなのだ。なにかに固執し、それを中心に据えて世界を形成しなければ、不安定で仕方がない。
 昔ほど、たぶん、私は彼のこと愛してはいないのだと思う。それでも、今はまだ、彼ほど囚われてしまうものは、他に無い。だから、彼がショートヘアもなかなか好きだと言えば、私は唯一こだわってきたロングヘアを捨てることだってする。彼に囚われることができるのなら、安いものだ。そうやって、確固たるものを中心に据えて世界を形成することのほうが、どうしたって正確で、安定的で、楽なのだ。






空中楼閣





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