※読み方
お紅(おこう)
直継(なおつぐ)
兼康(かねやす)
あの日から、雨が止まないのです。
「お紅」
声と共にスーッと障子が開いて、暗い部屋に薄く光が射し込んだ。お紅は書机に散らかしている和紙を無造作に折っていた手を止めた。
先から店先で、声の大きな番頭が「直さん、直さん」と、最近の空模様やら景気、はたまた流行りの窃盗事件についてなんかまで話し込んでいるのが聞こえていたので、お向かいの長屋の二軒先で遠野屋という仕立屋を営む幼馴染の直継が来ていることを、お紅は了解していた。故に、特に直継の訪れを驚く様子もなく、少し顔を上げるだけで、お紅は直ぐに和紙を折る作業を再開した。その様子に、直継は眉尻を下げ、出かかった溜め息を飲み込んで、書机を挟んだお紅の向かいに胡坐をかいた。
お紅の家は辺りでも大店の篠崎屋という呉服屋で、仕立屋を営む直継の家とは何代も前から馴染みがあった。遠野屋は個人で営む仕立屋だったが、仕事はもっぱら篠崎屋からの依頼で、一見すると大店とその下職という関係だったが、篠崎屋は正式に下職として雇っている仕立屋が幾つかありながらも、何かと遠野屋を贔屓にしており、昔から両家は大層仲が良かった。直継とお紅も、幼子の頃からよく一緒に遊んでおり、昔はちょっとばかり元気の良すぎるお転婆なお紅に泣かされていた直継だったが、二年程前に急逝した父の跡を継いで、今では母親と共に立派に親方として店を営んでいた。しかし、一年程あとに、昔から兄のように慕っていた遠縁の兼康という男を婿養子に取って結婚したお紅は、今では部屋に籠もりきりで、ろくに食事も取らず、日に日に弱っていた。というのも、半年前の大雨の日、氾濫した川に流されて、兼康が行方不明になってしまったのだ。死体は上がらなかったが生きているはずもなく、それに心を痛めたお紅は、以前の明るい面影を微塵も残さない程に憔悴していた。直継は毎日のように見舞ったが、お紅は無造作に和紙を折っているか、何もせず天井を見上げているか、大抵そのどちらかだった。話しかけても大して反応を返さないお紅に、直継は他愛のないことを語りかけ続けた。
「昨日、久しぶりに神田の方に出たんだ。それで、……お紅?」
お紅の唇が微かに動いた気がして、直継はお紅をまじまじと見つめた。もう一度「お紅」と呼びかけると、お紅は先より少しだけ唇を大きく動かした。
「あめ」
お紅が再び唇を結ぶと、しん、とした部屋に、しとしと雨音が響いていることに気がついた。本当に微かな音で、直継が立ち上がって障子を開けると、肉眼で確認するには困難な程、ほそい細かな雨が降っていた。そこに、しとしと、しとしと、とまた別の音が混じった。振り返ると、お紅が泣いていた。
「直さん、雨が降ってる」
「ああ」
「止まないのよ。あの日から、ずっとずっと」
お紅は泣いている。けれど、その表情は能面のようだった。能面の瞳から水がこぼれ、能面の唇が微かに囁く。堪らなくなった直継は、顔を歪めてお紅の前に膝をつくと、強くお紅の肩を掴んだ。抱き締めようと背にまわしてしまいそうになった腕を、必死にお紅の肩に留めた。
「あれからもう半年だ。皆がお前を心配してる。いつまでそうしてる気なんだ。兼康殿はもう……」
その先を言うのはやはり酷な気がして、直継は閉口した。お紅は少し肩を震わせて、両腕で己を抱くように縮こまった。
「あの人はまだ、私の中にいるのよ。綺麗に残ってるの。あまりに鮮やかすぎて、思い出になんて出来ないのよ」
お紅は苦しそうに呟いた。初めて、お紅の顔が歪んだ。己を抱く姿は、まるで兼康との全てをひとつも逃すまいとしているように見えた。直継ははっとして、お紅の肩から手を退けた。
「また、明日来る」
お紅は何も言わなかった。直継も、それ以上何も言えることがなかった。
涙雨
(色鮮やかに私の中に巣くって、恐いくらい。)
(思い出になんて、出来ないわ。したくないわ。)