忘れることが出来ようか。
『今時分に庭へ出るなど、お止め下さい! お風邪を召されますよ』
『過分に心配をするな。それより見てみろ。名月だ』
あまり長い時を共有した為か、恐れ多くも貴方は私の一部に等しく在った。
『その兎、食べるのか?』
『な、何を仰いますか! 東の庭に迷い込んで来たのを見つけたのです。足に怪我を負っているようで……』
『そうか。お前は優しいな』
既に後戻りは出来ないのだ。振り返れば、己は未練がましく、心は虚に侵されるばかり。なんと浅はかなことか。
『祭見物をなさりたいのなら軒を御用意致します故、暫しお待ち下さい!』
『何を言う。軒から眺める祭など祭にあらず! 自らの足で見物してこそだ!』
『……仕方ありませんね。私もお供致します!』
只、思考せずには居られない。
私は『私』の意志で貴方にお仕えしていた、と。決して、我が『家』の為に貴方の『家』にお仕えしていた訳では無かった筈だ、と。
『全く、お前には敵わんな』
『殿のお考えなどお見通しです。生まれた時からお側にいるのですから。殿の世話など、私くらいしか手に負えませんよ』
『言うようになったな。俺かお前、どちらかの命果てるまで、俺に仕えろ。離れるな』
『勿体無き御言葉』
貴方と共に在ることが、私が私で在る全てであったのに……。
既に幾分か慣れては来たが、鼻を掠めるのは何とも形容し難い臭いだった。それらは夥しい血と、全てを焼き尽くした臭い。そして、戦場に生きる人間の臭いだった。
「何を考えている。敵を相手に余裕だな!」
『敵』というその言葉が、負っている傷よりも遥かに己を痛めつけた。けれど、事実、殿、否、自身に刃を向ける男は敵以外の何者でもないのだった。
何故こんなことになったのか。
戦乱の世とは、何が起きても不思議は無く、自身が思考する可くもなかった現実が今在るのだった。
下剋上とは正にこのこと。我が家は、永年お仕えして来た家を裏切ったのだった。私は何も知らされていなかった。父は、言えば私が反抗することを見越していたのだ。
そうして、何の因縁か、奇しくも私はこの広漠たる戦場で、お仕えしていた方と刃を交えているのだった。
命果てるまで離れぬと誓ったというのに……何故、何故、何故ッ!
「相変わらず優しいな、お前は」
はっとして顔を上げると、交わっている刃の向こう、然しとても近距離で、彼の方は私を見据えていた。
「……殿!」
「まだ俺をそう呼ぶか。つくづく甘いな!」
彼の方は刀を持つ手に力を込め、一気に押しに出た。思った以上の重圧に、私は反射的に刃を傾けそれを流す。そして、一気に距離を詰めた。
「やはりお前には勝てぬか」
彼の方は、嘲笑、苦笑、或いは微笑とも取れる機微な笑みを浮かべた。私もそれに釣られた。私のは、無論苦笑だ。
「昔から、貴方は剣術が滅法でしたからね」
「戦に出る予定はなかったからな」
彼の方は、ふんっと鼻を鳴らして屁理屈を言った。
「富も名声もいらなかった。あの城で、お前たちと何事もなく日々を送ることが、何よりの」
何よりの幸福だった。
最後はまるで噛み締めるように消え入る声音で、そして正しくそれと対照の不敵な笑みをを満面に浮かべた彼の方は、さらに続けた。
「俺を殺せ」
その言葉に、私は戦慄した。
「殿ッ! 私には出来ませぬ! 貴方を殺すなど、私に出来るでしょうか、出来るわけがない!」
「だから甘いというのだ。殺せ」
「出来ませぬ!」
「違うな。出来ないことなどあるか。それは単にやりたくないだけであろう。駄々をこねる幼子と同じだ」
私は何も言えなかった。彼の方は正しかった。出来ないことなど無いのだ。敵勢の殿を目前にして、私が成すべきことは一つだった。
それでも、私は出来ない、否、やりたくなかった。幼子と変わらぬ我儘だということも自覚していた。それでも、それでも……。
「殺したくない……私は貴方を殺したくない!」
私の嘆声は虚空に霧散した。彼の方は半眼で私を見つめるだけだった。
「殺せ」
「嫌です!」
「殺せ」
「殿ッ!」
喚く私に、彼の方は嘆息した。
「……お前の主人は誰だ?」
「貴方です」
私は寸の間も置かず応えた。この状況でそう応えることに、何の違和感も感じなかった。
「ならば俺を殺せ。これは主人の命令だ。お前に対する、俺からの最後の願いだ」
私は呆然とした。そんな言い方があるだろうか。そのような言葉に、私が逆らえる道理がないと知って……。
「貴方は、残酷だ。私に選択の余地など無いではありませんか」
「そうだ。お前は俺を殺す以外どうしようも無い」
私は沈黙したが、彼の方の静閑なようで熾烈な眼差しを避けることは出来なかった。
「……それが、殿の命とあらば……」
私の応えに口辺だけで笑みを作ると、彼の方は何ともはや潔く凛然と、地に安座し頭を垂れた。
「お前は生きろ」
返事はしなかった。出来なかった。刀を握る手が震える。それでもやらねばならなかった。
私は刀を上げた。そして、振り下ろす。斬った。食い込む。視界が揺れた。肉の抉れる感覚。血飛沫が私を染めた。辺りを染めた。鮮血の紅が、私の罪を克明にした。
「と、の……」
私は転がった屍の傍らにへたり込んだ。
刀は私の手から離れ、彼の方の頸元に食い込んでいた。
『お前は生きろ』
そう言った彼の方の声が、頻りに私の耳朶を廻って止まないのだった。
私の哭嘆は、又しても虚空に霧散した。
この魂が来世に還ることがあるならば、
―――私は
―――俺は
もう一度
―――貴方と
―――お前と
共に在りたいと。
幽明、境を異にする
(そう願わずにはいられなかった。)